✍️176 選択、決断、進むべき道

こんばんは
HREdayamです。

 

最近、
特に今年に入ってから
決断を迫られることの回数がやけに多いように思います。

本当に何故か分からないけれど、
とても頻繁に迫ってくるように感じるのです。



しかもどれも、ゆっくり悩む時間がないものばかりで、
まるで、生菓子のようです。

満腹の時に、突然頂いた高級なケーキのように。
「今、食べるのが一番美味しいのはわかっている」
けど、


"食べる"か"食べない"かを今スグに決めなければならない!

しかも、
翌週もその翌週も...といったように続く、

迫りくるケーキ!

ケーキの大群。
もしくはケーキの群衆。

そういうタイトルで映画を撮りたくなるような。

 

なんて面白そうなB級映画!

 

ちょっと分かりにくくなってきましたね。
すみません脱線しました。
いつもの悪いクセです。

 

とにかく、人生が急に早送りになったみたいで、
選択だけが次々と差し出されていくような感覚。

 

選ぶか選ばないかを決めるのは、

結局、直感になります。
結局、頼れるのは自分の感覚。

長く使ってきた感覚。
長年使い込んできた感覚。

理屈では説明できないけど、
今までも圧倒的には外さずに、ここまで来られました。


自分の感覚だって、
別に決して完璧じゃないのですが、

でも、
他の何を(例えば占いや辞典とか)使っても
別に完璧じゃないなら、
自分の感覚に頼るしかないし、
自分の感覚に頼ればいいと思ってます。


問題は、
『何かを掴むのなら、何かを捨てなければならない。』
ということです。


これは精神論じゃなくて物理の話。
現実の話。この世界のお話。
大切な事象。


物理的に両手が塞がっていたら、
新しいものは持てないですし、
次の部屋に進む扉にすら手を掛けられなくなってしまいます。

そして、
その何かををしまっておくポケットにも限界がありますし、
そもそもジャケットやパンツにポケットが付いていない洋服だってあるのです。

 

 

全部欲しいと思うのは自由なのですが、
その全てを持てないというのが現実なのです。

そんなことを何十回も(或いは何百回も)考えながら、
結局今の僕に必要なのは、

 

『HREdayamらしく進むということ。』


それは、決して勝ち筋を選ぶことじゃなくて、
自分に違和感のない道を選び続けることだと思っています。

地図を見て進んでゆくよりも、
直感で選ぶという静かな確信で選んだ道。
足裏の納得。


そこに速度を加えて突き進むことにします。
(決断の速さもとても重要なのです。)

 

遠回りに見える選択だとしても、
自分の感覚に従っているなら、
それは回り道じゃなくて、ただの自分の道。
前例のない、自分で作った道。

 

落とし穴があるかも知れない近道よりも、
地面の感触がちゃんとある道。

 


これは「フリダヤム」の話でもあるし、
結局は「オオハラケイタ」自身の話でもあります。


「フリダヤム」という存在(結末)へ辿り着くということは、
どこか輝かしいだけの場所へ行くことじゃなくて、

余計なものを出来るだけ削って、
大切なものだけを抱えて向かわなければならない。

今はそれを選択している最中なんだと思うのです。
取捨選択している最中。真っ最中。


本当に必要なのか?
今必要なものなのか?

それとも怖くて、
何かを足そうとしているだけなのか?

まるで洋服を無闇にレイヤードしまくって、
オシャレどころか服の着ぐるみになってしまうように。

 


そしてモンスターになってしまうように!

 

これからも、
「フリダヤム」と「オオハラケイタ」の自問自答は、
永遠に終わりません。

参加者は一人の永遠なる会議。
次々と机に差し出される
議題。
尽きることはありません。


でも、この直感で
進む方向だけは外しません。

少なくとも、
「なんとなく違う道を全力で走る」
という失態はしないように。

 

それでいいし、
むしろ、それがいいと思っています。


進むっていうのは、
正解を当てることじゃなくて、
(そもそも何が正解かなんて分からないかも知れないですし)

不必要なもの(不必要に限りなく近いもの)を削ぎ落としながら、
必要なもの(だけ)を抱えて、
「オオハラケイタ」が、より「フリダヤム」に
近づける未来へ向かってゆく気がするのです。

 

こうなったらもういっそ

『オオハラダヤム』って名称にすればいいかとすら、常々思ってます。(一度も思ったことありません。)

 

HREdayam

ブログに戻る

コメントを残す