こんばんは
HREdayamです。
オオハラです。
憧れの対象について。
おそらく、"憧れる"という本来の意味は、
こういう人になりたい、ああいう立ち振る舞いをしたい。あんな風に生きてゆきたい。そんな感じだと思います。
でも、何ものかになりたいかという話ではなく、
ある状況に直面したときに、そういう人たちがどういう行動とか判断をするのか
と考えることについて。
そういった"思考"という部分においての憧れがあります。
アーティストやミュージシャンや物語の登場人物とか。
カートとかドクとかホールデンとか、
その他にもとても多くの憧れた人たち。
もちろん直接あったことはないので想像の範囲を超えないですが、そんな視点から、何かを判断することがあります。
しかし、そんな錚々たるメンツの中で、一番登場するのが23歳の自分です。
(23歳のオオハラのことなんて聞きたくない!という気持ちを抑えて頂き、もう少しだけ読んで下さい。)
あの頃の自分ならどう考えるか。どう思うか。どうするか。
を大切にしています。
でもそれは、自己愛というよりも、
かつて自分が抱いていたものへの信頼。
とんでもなく不器用で、とんでもなく不完全で、まあまあ不健康だったんですけど、色んな現実と経験を経てしまった"現在"より、余計な添加物を含めない、とても率直で純粋な想いを持っていた人間。
その気持ちこそが、衝動を突き動かす原動力になっていて、その判断こそが正しい。
と信じています。
例えば、ひとつ前に書いたブログの内容に不随してしまいますが、
僕はいつしか販売員に憧れました。
その装い、立ち振る舞い、佇まいに。
例えばどこか通っているショップに行った際に、そのお店の店員さんが、
「今日はどんなスタイリングをしているのだろう」
って、それだけでウキウキしていました。
接客して頂くのと同じように、店員さんのスタイリングを見るのが、とても楽しみでした。
同じ洋服を全然違うスタイリングしていたり、
上手にトレンド取りいれていたり。
23歳だった青年は、そんな人に憧れを抱いていました。
そして先ほどの話の続きですが、
大人になってから、慌ただしい生活になったりして、
効率の良い生活や仕事などに鑑みて、ただ効率だけを優先するならば、
"洋服をスタイリングする時間"を削る。
という選択肢が一つあります。
スタイリングする時間を何かを他の事をするのに充てられます。
そうするためには、
洋服を適当に選ぶとか
制服のように同じタイプの洋服を着るとか、
逮捕覚悟で何も着ずに出掛ける…etc
という手段の一つではあります。
でも、当時の僕はそれをしたくない。
(服を着ないのは誰もしたくない)
例え1時間早く起きなければならないとしても、きちんと洋服を選びたい。
早朝ベッドから出て瞼を3mmだけ開けたままクローゼットを思い切り開けたい。
勿論考え方の一つであって、責任は自身に不随します。
それで腰を痛める事もありますが、仕方ない。
肉体はピークを迎えてからは衰えゆくのです。
でもそこに収まっている訳にはいかない。
無理してでも何かをやらないといけなくなったりやりたいと思った時に、
23歳の自分が、
「おいおい、守りに入っていないか?」
という自分を叱咤しているような気がします。
若くありたいとか、若返りたいとかは微塵もなく、
ただ、あの頃のただカッコ良い事をやっていたい!という強い想いに憧れて、今日も楽しく生きるのです。
そんなことを思いながら、お味噌汁で体を温めています。
夏と秋は茄子が美味しい季節です。
ごちそうさまでした。
HREdayam.