こんばんは
HREdayamです。
どうやらこの世の中は、
夜と朝、
暑いと寒い
陰と陽、
甘いと辛い、
右と左...etc
対極のものから成り立っています。
そしてバランスが取れて、今日も地球は回っています。
例えば「上」という意味を伝える時に、「下ではない」という言い方を考えてしまうように、
ある言葉を思い浮かべる時に、その対極にあるのものを連想せずにはいられない事が多いと思います。
(じゃあ扇風機は?とか言わないでください。物質の名前とかではないです。腑に落ちないのでしたら、扇風機の対極は、貼るホッカイロでしましょう。そうしますので続けます。)
そして、"陰"の対極にある"陽"。
【陰陽太極図】が表すように、
森羅万象あらゆるものは陰と陽のバランスによって成り立っている.。
そしてこの図は、必ずしも、
"陰(黒)が良くない事で、陽(白)が良いなのではない"という意味もあります。
(夜が好きな人は暗い方が陽と思うように)
そして、それぞれの内部に対極のものが含まれている。
必ずある"対極"を理解するという事象がとても必要であると考えています。
その捉え方がすごく好きです。
【陰陽太極図】の説明はここまでにして、
現在起きている事が良い事なのか、それをどう捉えるべきなのか。
今は、悪いことだと思っていても、この先の流れを考えたら、果たしてそれは悪い事なのか。
そして、同じ物事を体験する時に、その対極にいたらどう感じるのか。
例えば先週の日曜日、晴れたから嬉しい人もいれば、悲しい人もいる。
遠足に行く人は晴れたら嬉しいし、レインパーティをしたかった人は晴れると悲しい。
でももっと言うと、遠足の日が晴れて、楽しみにしている人は嬉しいし、行きたくない人は悲しい。
それぞれの事柄に対して、浮かぶ感情は人それぞれです。
ある人が嬉しく思っている事象に対して、この世では悲しんでいる人もいるかも知れない。悲しんでいるから喜べない、ではなくて、
自分も悲しむ時もあるし、その時に喜んでいる人がいるけれど、今楽しい時を存分に楽しもう!
それが世界のバランスではなかろうかと思います。
なかろうか、と。
ようやく本題ですが、
僕が出来ない事(料理とか力仕事とか、スポーツとか)が出来る、
僕の持っていないものを持っている方(対極にいる方)への尊敬。
とてつもなくすごいと思います。
キャベツ側に千切られる事があったとしても、千切りなんて一生出来ない。
そして、更に、
"僕が行っていること"で対極にあることをされている方にすごく魅力を感じてしまいます。
同じ針と糸を持っても作れない、
ペンや絵の具と筆を持ってしても描けない
技術的にも発想的にも。
でも、それを悔しいとか、そういうのを描けたらなーってことは一切なくて、
心から"崇める"という感情が沸き溢れます。
(そして、その感動の涙が溢れて、地を伝い海へ流れて、レインパーティが開催されて、それを待ち望んでいた人々が歓喜して下されば本望です)
しかし、対極だと言っておきながら、延長線上の話なのかと思いますよね。
違います。それも、最初に言った"バランス"だと思っているからなのですが、
例えるならば、大枠で言うと陽の対極に陰があります。
でも、陽の中だけで考える対極もあるわけです。
(先ほどの遠足を中心に考えた時の、行きたい人と行きたくない人のようなことです)
つまり、
「絵を描く」という部分だけ抽出します。
その中の僕の対極にある絵を描いている方(或いは絵そのもの)。
つまり、僕がどう足掻いても描けないもの。作れないもの。
絶対にその作品を作ることは僕には出来ないけれど、
ある意味では僕の対極にいるそんな方々にどうしても惹かれてしまうのです。
明るい風景画が陽で、僕が描く絵が陰という訳では決してない、
と強く言いたいのです。身近な方に、そう強くお伝えください。
なので色んな偉大な画家の絵も、今描いておられる方も。一枚でも多くの作品が見たい。もちろん絵以外の分野も作品もです。
すべての事象について、どちらかに優劣を付ける訳ではないのです。
対極にあるものが、決して敵である訳ではなく、それがこの世界に存在してくれるということを受け入れるだけで良い。
対極とのバランスを取って生きる、それが美しく楽しく生きるということ。
そう思って今日も生きています。
HREdayam.
ところで、レインパーティ。そんなパーティ知りませんし、あったとしても行きたくはない。
ただ雨で喜ぶことの良い例えが浮かばなかっただけの話です。そういう時に良い例えが思い浮かぶ人たちを崇める、そういう事です。