こんばんは
HREdayamです。
僕は今、準備について考えていることを書こうとしています。
この文章は、パソコンで書いているのですが、
その為には、パソコンの電源を入れて立ち上げるという準備があります。
(タイピングする指先に全身全霊を込める準備も)
同じように、
会社で働くまでの通勤時間(実務での準備はまた別にあって)や、
料理をするのに、食材を調理して(とんでもない時間煮込んだり、更には食材を買いに行ったり、あるいは野菜を育てたり!)
その時間をどう捉えるかは人それぞれ、千差万別ですが、その準備をしている時間がとても好きです。
例えば僕ですと、リペアをする時、
全体の構成や細部のディティールのデザインを考えます。
そして糸選び、裏地選び、ミシンの調整、などなど。入念に。
絵を描くのも同じです。リメイクも。
(そこからは割と感覚的な部分だけを使うので、自由にやります。)
その第三者からするとほぼ無である、"空白の時間"というものが好きなのです。
脳を使う準備と、身体を使う準備でまた異なりますが、そのどちらも好きです。
そんな背景にある"時間"を考えるようになりました(準備時間は人生に似ているとか哲学的な事を言うつもりなど、毛頭ありません)。
どちらかというと、準備する時間をどれだけ愛せるかで、またその実務的な内容も愛せるかの度合いが変わってくるのかな、なんて思ったりしてます。
準備時間を具現化して猫に変えられるなら、めちゃくちゃ愛でます。
そうでなくても、猫を愛でます。
つまり、
入念に準備を施した分、全力でパフォーマンスが出来る。
と思っています。
とても優れた陶芸家が、生涯で一つの壺を作るのに全力を注ぐように。
例えば、外で食べる料理は「食材だけ」の金額ではなく、その準備にかけた時間と努力を含めたもの、そしてそれを作り上げる時間と労力の賜物であり、
家の料理はその"空白"の部分が無償で行われている、愛深き事象です。
つまり、こんなに時間を使って準備してるんだよ!ってことではなくて、
その時間があって生まれたものが、自分にとっても誰かにとっても魅力的なものであって欲しい。という想いです。
また同じように、
色々なものを作ったり、描いたり、縫ったり、編んだり、染めたり...
その人々が"準備"に込める時間と努力に敬意を表します。見えない"時間"を想います。
それでは、ウィスキーと混ぜる炭酸の準備を始めてきます。いってきます。
今日のところはさようなら。
全ての素晴らしき皆様へ
HREdayam,Love
オオハラ